■夏の日のまほろばデイズ




@夜駆ける獣

 濡れた夜を切り裂くように、獣が駆けていく。
 それはもう鹿らしい、見事な走りだったのだが、白羽は「ええいもっと早く動かないか!」と、自分の脚をじれったく思った。
 夏本番を一歩手前に控えた季節。春日灯籠神社の境内……奈良まほろば公園と呼ばれている辺りの森は、日に日に緑の匂いを濃くしていた。しんと湿りけを帯びた空気が、白羽の半袖シャツから伸びた腕を、ひんやりと滑っていく。春に新たに伸びてきた角も、すでにぐんぐん伸びきっていた。
 疾く、疾く。気持ちは身体よりも速く行く。
 なぜなら、白羽は恋をしているからだ。
 好きな人に会いに行くところなのだ。仕事が終わった後の短い夏の夜。寸刻でも無駄にはできない。
 暗がりの中、煌々と光る瞳には、すでにその人を映していた。
『今夜、行っていいか? 会いたい』
 昼間、白羽が想い人──結崎草介に送ったメッセージには、こう返事があった。
『ああ』
(ああ……ああ……『ああ』だと!?)
(まるで、付き合ってるみたいではないか!)
 みたいも何も、2人は付き合っているのだけど。実感できるやり取りに、白羽はテンションがガッと上がった。
 会いたい、と言うだけで会える……! ゲームの新作だとか、難しい技が出せるようになったとかの理由を付けなくても!
 休憩中、携帯端末の画面を見て思わずガッツポーズを高らかに上げると、隣にいた年の近い神使、千冬がビクッと肩を震わせ、拭いていたメガネを取り落とした。
(去年の今頃では考えられん……)
 長年、想いを誤魔化しながら友達でいた幼なじみと、大逆転ホームランで結ばれることになったのは半年前だ。
 一方的な想いだと諦めようとしていたら、いろいろあった末、実は草介も同じ気持ちだったと分かった。
 そこからは、白羽は夢の中のジェットコースターに乗っているみたいな気分だった。空を飛ぶような心地の抱擁をして、身体によくないお菓子のように甘いキスを交わした。そして……言葉にし足りない想いを伝え合うために、2人で寝床に着地したのだった。
(最高の夜だった……)
 白羽の顔は少々だらしなく緩んだ。
 あの時を思い出すと、今も腰がとろけそうになる。切れそうな糸で押しとどめていた欲を、解き放ってしまった。
 本当は、押し倒した時までは、自分の想いのほんのかけらでも分かってもらえれば、くらいの気持ちだった。だけど、小さな頭をもたげて見上げてくる透き通った瞳や、か細く震える白い手足が、あまりに可愛くて、もう途中で止めることはできなくなった。
(愛しいな……)
 草介を思い浮かべると、なぜか白羽は泣きたいような気持ちになった。存在の尊さと、感謝と……なんだかよく分からない感情が入り交じって。そして、本能が教えてくる──恋をしていると。
 何で、こんなにも想うのか分からない。
 草介の言葉のトゲは、素直じゃない草介の親愛の表現の一環だと分かるので、いっそ快感なのだけど、昔は傷ついたこともあった。草介は「誰からもちやほやされていたお前が、冷たい扱いされて珍しかっただけだろう」などと言う。それも答えかもしれない。もはや、自分では分からない。
 だけどこの胸には、確かに恋がある。きっと何年経っても変わらない、ダイヤモンドのように固く、色あせない気持ちが。それは動かしようない事実だった。

 観光地である猿沢池付近も、この時間には、虫の鳴く声がするばかりで、人や鹿の影はない。
 そこを通り過ぎると、草介の住んでいる街がある。
 この辺りは、奈良まほろばの歴史景観保存地区で、昔ながらの細い道に間口の狭い家が立ち並んでいた。草介の下宿もリフォームされた古民家だ。
 家屋の脇に拵えられた階段を軋ませて上り、息も整わないまま扉の前のチャイムを押す。ほどなくして、内側から扉が開いた。
「おお……入れよ、白羽」
 草介は、ちょっと照れくさそうに、斜めに構えながら、白羽を見上げた。つり上がった丸い瞳が、街灯を反射して、キラキラ輝いて見える。
(あぁ……草介だ……)
 この時を待ち望んでいた。好きな人を目の前にして、全身の細胞が喜びの声を上げている。胸に熱いものがこみ上げ……そこまではいいのだけど、しかし。
(……っ、……マズい……っ)
 膨れ上がった想いが、瞬間、危険水域を越えてしまう。普段は押し隠した衝動が、形を表す。
(…………ちがう、だめだ抑えろ……)
 自分を一番知っている草介も知らない……だから誰も知らない、白羽の胸の奥底の奥底。ちりちりと消えないまま、燃えているもの。
 首もとに噛みついて、乱暴に引き倒して、今すぐ犯してやる……だけならまだいい。そのまま、引き裂いて、喰いちぎって、肉食動物のように自分の内に取り込んでしまいたい。白羽には、そんな獣の欲がある。
「…………どうしたんだよ」
「…………」
 草介は棒立ちのままの白羽に首をかしげた。吸い寄せられるように、白羽の手が持ち上がって、草介の頬に触れる。瞬間、電流のようなものがピリッと走ったような気がした。草介も感じたのか分からないが、草介は避けずに、白羽の手のひらを受け入れた。
 親指でそっと撫でると、草介も少し目を細め、頬を手に寄せて預けてくれる。
 そうしてるとだんだん、波立った気持ちが凪いで、静かな湖面のようになる。恋の激情よりも、愛の慈しみが増していく。
 同時に草介への、申し訳なさに、胸が苦しくなる。
 白羽は幼い頃、草介と出会って、世界が息をし始めた。
 けど草介にとって、良かったかは分からない。
 少なくとも、あの頃は白羽のことが本当に迷惑だっただろうと思う。
 草の陰に、隠れるようにしていた子供。白羽とは正反対に、幼いながら自分の立場を理解していた。だけど、白羽が無神経に追い回したせいで、悪い目立ち方をしてしまった。しまいには、命を失うほどの大きな怪我をさせてしまった。白羽の傲慢さが生んだ結果だ。
 それだけのことがあったのに、白羽は草介を追うのを止められなかった。久鹿家を取り仕切っている大奥様も、暗に草介にはもう近付くなと言っていても。
 だけど、草介は白羽を友達にしてくれた。事故のことは忘れていたにしても、人に見られるのが嫌いな草介が白羽といるのには負担がかかるだろうに。自由なはずの草介が、この奈良まほろばに居続けることだって、自分の為とまで調子に乗ったことは思えないけど……そうじゃない選択肢もあったはずなのだ。今、ここにいてくれることに、再び感謝の気持ちが沸き起こる。
(草介……)
 手のひらをそのまま滑らせ、華奢な背中へと腕を回す。小さな体躯は簡単にバランスを失って後ろへと揺らいだ。
「あ、わ、わ……こらっ」
 草介が慌てるのにも構わず、角が少々入り口に引っかかりながら、草介の部屋の中へなだれ込むように上がった。
「この、万年発情鹿め……っ」
「ありがとうございます……」
 眉を寄せた草介が罵るので、思わず心の中の言葉が口から飛び出した。草介は「うわ……変態」とよけいに蔑んだ目で見上げてきた。



A刺激が足りない

 白羽が感傷的になっているのは、理由がある。
 あの節分の灯籠祭りから、春、初夏、と移り変わる季節を共に過ごしている。2人の新しい関係が徐々に馴染んできている中……白羽は少々思うところがあるのだった。

 ひとしきり愛し合った、心地よい疲れの中。
 白羽はぐったりした草介の身体を、風呂場で、大事な宝物のように清めた。狭い浴槽に2人で入る時にも、草介は文句を言う気力もないようで、白羽の折り曲げた股の間におとなしくおさまっていた。
「……草介、無理をして悪かった……」
「…………あぁ」
 もう何度も身体を重ねているけど、今でも草介に触れることは、最初と変わらないくらいのときめきと緊張があった。つい、草介の体力を考えずに己の欲望を優先させてしまう。
「…………眠いのか?」
「ん……」
 白羽が尋ねると、草介はうつらうつらと船を漕ぎながら、もう一度ぼんやりと返事をした。
(可愛い……)
 半分まぶたの下がった、長い睫毛が影を落とす顔。恋愛感情を意識していない頃から、純粋に顔の造作が好ましいとは思っていた。
(…………)
 ちょっといたずら心が沸いて、草介の少し開いた唇に、人差し指を押し当てる。そのまま中へ滑り込ませ、熱い舌をゆっくり、優しく撫でる。
「ん……、ふ、ぁ……」
 草介は細めた瞳で、後ろの白羽をうっそりと見上げてくる。しかし、拒む様子はない。
 昔は、不用意に手を出すと噛みつく気高いノラ猫みたいだった。白羽が調子に乗ったことをすれば、爪を立てられたものだった。でも最近は。
 反対の手で、胸を撫でる。飾りの部分を探り当て、指の腹で優しく触れるだけで形をなぞった。
「…………っ、ん……ぁ」
 こうして白羽の手を、ただ受け入れている。人になついた品のいい飼い猫のように、白羽に身体をゆだねてくれる。
 この変化に対して白羽は、
(なんと……。恋人になった草介は、こんなに甘いのか……!)
 と、まずは有頂天になった。
「痩せてるんだからもっと食べろ、肉を食え」
「風邪をひいたらいけないから、ちゃんと髪を乾かせ」
 こういった、前は右から左に流していた白羽の言葉も、黙って言うとおりにしてくれるようになった。
 しばらく白羽は、この幸せのバブル期を楽しんでいた。しかしだんだんと、違う気持ちが頭をもたげてくる。
(…………何というか、その、ううーん……)
 もちろん、この草介はイヤじゃない。最高だし、愛しているし、好きという気持ちが目減りする訳じゃない。
 しかし、言いにくいのだが……ちょっと物足りない気持ちも、ある……のだ。
 正直なところ、草介に怒られたり、ツレない態度を取られたりしたい。ごくまれに優しくされた時の、急激な幸福感、脳が快楽物質でいっぱいになるのを味わいたい。そういう刺激が欲しい。ひょっとしたら妙に凶暴な衝動が沸くのは、この欲求のせいかもしれない。
(むぅ……贅沢な話ではあるが……)
 白羽はいろいろ考えを巡らせていたが……しだいに、下半身の方に、脳が下降し始めた。草介に触れているうちに、セックスで発散しきったと思っていた性欲が、むくむくと蘇ってくる。すでに、白羽の足の間にあるモノは主張を始めていた。草介の腰に引っかかるように当たっているのが気持ち良い。
(………ふむ)
 いつもなら、さすがに我慢するところだけど、草介の腰を掴み、ゆるく動かして、快楽を得る動きに変える。
「…………っ」 
「草介……すまん、もう一回だけ……」
 さすがに草介は怒ってくるだろう。この絶倫変態鹿、いっぺん脳みそ取り出して洗浄して来い、と。
 期待に胸を躍らせていたのだけど、草介はお湯でピンク色に染まった頬をさらに赤くしただけだった。
(…………なんと……)
 白羽は腰を草介の臀部にすり付けつつ、驚いて目を見開いた。


Bこれはいかんぞ

 草介のツレない態度、キツい言葉が与えられないと知ると、何だかよけいに恋しくなってくる。先日から、白羽は仕事の休憩中もそればかり考えている。
(いったい最後に草介に蹴られたのはいつだ……!? くそ……ちくしょう……、何でなんだ草介……! 丸くなるにも程度というものがあるだろう!)
 珍しく、白羽は汚い言葉で悪態をついた。勢いのまま、自分の膝を拳で叩くと、隣にいた同僚の神使の千冬がビクッと肩を震わせ、拭いていたメガネを取り落とした。
「おい、お前何なんだいったい……っ」
 千冬の非難してくるが、しかし、自分の思考に没頭している白羽には聞こえない。
(何とかして……草介に罵ってもらうぞ……)
 切れ長の目をさらに鋭くして、固い決意をした。
 数日後。
 観光協会の人間と打ち合わせをした後。白羽が帰り道に近鉄奈良まほろば駅の前のアーケード付きの商店街を歩いていると、草介と出会った。仕事の帰りに、夕飯の買い出しをしていたらしい。
「五目弁当ひとつ」
 と、草介がまた肉っけのない弁当を注文しようとしているので、途中で、「いや、やっぱり五目唐揚げ弁当にしてくれ」と口を挟む。
「あ、いや、ちょっと……」
 草介は声を上げようとするが、弁当屋の女店主がこちらに気づき、
「まぁ白羽様、いらっしゃい。暑くなってきたねぇ。夏の灯籠祭りももう目の前じゃないか、ねえ? ほら、五目唐揚げ。ポテトサラダも付けておいたよ。サービスね」
と、怒濤のごとく言葉を続けるので、草介は黙って受け取るはめになった。
「……草介? 怒ったか? 怒ったのか?」
 歩きだした草介は、渋い顔をしていたが、白羽が身を乗り出して顔をのぞき込むと、ふっとため息を吐いた。
「……もう、いいよ」
「む……」
 どうやら本当に怒ってはいないらしい。
 そのまま歩き続けるので、白羽は黙ってついていく。
 角を曲がり、細い塀が入り組んだ脇道に入ったところで、白羽は周りに誰もいないことを確認してから、草介の横に並んで手を握ってみた。草介はピクッと肩を震わせるが、振り払わず、難しい顔をしたまま歩き続けた。
 神社に戻る白羽と、家に帰る草介が別れる場所になって、2人は自然に足を止めた。
「じゃあ……また」
 草介が口を開いて別れを告げようとしたところ、白羽は頬に手をかけた。
「…………っ」
 顔を傾け、草介の唇に、自分のを重ねる。草介が驚いて吐息を漏らすが、それを飲み込むように、角度をつけ、深く絡み合わせた。腰を抱いて引き寄せ、少しも隙間ができないように。
「ん……、……っ……」
 音をたてて、舌で口の中の上側……草介の弱いところを愛撫する。行為をする前の、性的なキスのように、指で、耳の裏をくすぐりながら。
 草介は、外で白羽と会って話すこと自体、前は嫌がっていた。まぁ、知っていながら、あまり我慢がきかず、気を使ってやれなかったけど。
 だから今、いくら草介がスウィートな恋人になったとしても、こんなこと、さすがに許すはずがないだろう。「立場を考えろ」とかいう問題以前に、真面目な草介は外でいちゃつくカップルは嫌いだったし。
 蹴られるのを覚悟していたけど、しかし、予想していた衝撃は来ない。
 目を開けて、草介を解放する。すると草介はうつむいてしまった。肩を縮め、小さくなって唇を拭っている。
「…………バカ」
 たったそれだけ呟いた草介を、白羽は目を細めて見下ろした。胸がざわつく感じを覚え、濡れたままの唇を舐め、唾を飲み込んだ。これはいかんぞ、という警告のランプが頭の中でチカチカと光っていた。


 また数日後。
 久々の休日、草介の家を訪れてまったりゲームをしていた。ボスを倒して欲しかったアイテムが手に入り、しばし休憩を取っていたところ、白羽は何気なく口を開いた。
「草介、もうすぐ俺の誕生日だろう」
「……自分でプレゼントの要求か?」
 草介はちらと目線を上げて答えた。一昨年までは学生だったことだし、お互いの誕生日には軽くファーストフードを奢るくらいしかしてこなかったが(草介の誕生日は、草介が拾われた日になっている)、今年はもう関係が違うのだ。
「うむ」
「まあいいけどな……そう高いものは買えないが……欲しいモノがあるのか?」
 草介が殊勝なことを言う。少し笑みを浮かべながら、白羽は言った。
「いや……実はその当日は、どうしても外せない打ち合わせがあってな。夜も空いていない」
「へぇ……そうか」
 草介は何でもないように、肩をすくめた。
「だから、今から貰っていいか?」
「は?」
 白羽は持ってきたカバンを開け、紙袋を取りだした。そして、草介の前に正座で向きなおり、それを手渡す。
「何だ?」
「誕生日プレゼントだ。開けてくれ」
「いや、お前の誕生日だろ。……いやな予感がするけど」
 中身を取りだして、白地に爽やかな水色の混じった小さな布地を、草介が両手で掲げるように広げた。草介はうろんげな目でそれを眺め、そのまま視線をこちらに向ける。
「コレ……」
「水着だ。季節だしな、商店街の店先に並んでいたんだ。見た瞬間、絶対に草介に似合うと思ったんだ」
「女物だろーーが!! しかもビキニ、紐パン……っ、何をどうしたら俺に似合うんだよっ、つかどんな顔してコレを買ったんだお前……っ!?」
「いやっ、別段、女性の格好をした草介が見たいという訳じゃない。草介の白く滑らかな肢体に、その可愛らしい布地がとても合うと思うだけであって……っ、ぜひ着てみてくれ草介っ、頼むっ、後生だっ、俺の誕生日祝いだと思って……っ」
「必死過ぎだ……っ!」
 ペコペコ頭を下げて頼み込む。予想した通りにどんびきしてくれたので、あとはガシガシと踏みつけにされるのを待つだけだ。我ながら考えてることが気持ち悪いが。
 しかし、まだ衝撃は来ない。目線を上げ、髪の隙間からのぞき見ると、草介は立ち上がろうとするところだった。
「…………誕生日プレゼントだな」
「…………?」
 草介は布地を握ったまま、部屋の隅へと向かった。どうしたのかと思っていたら、「いいって言うまで絶対に振り向くなよ」と低い声でうめくように言った。
(……!? ……っ!? …………っ!?!?)
 後ろの方で、衣擦れの音がする。もしかして、まさか、という気持ちで頭の中は瞬時に沸騰状態になった。胸の鼓動が耳元でうるさいほどだ。
 やがて、何の音もしなくなった。しかし、待てども草介は何か言おうという気配はない。
「…………」
 ゆっくりと、草介の方を振り返る。口から心臓が飛び出そうになるほど、緊張していた。
「…………こら、いいって言うまでダメって……」
 草介は、畳の上に座っていた。……先ほどの水着を身につけて、全身の肌をほのかな桜色に染めて。羞恥に耐えているのか、肩を丸め、股を閉じ、わずかながらにでも手で身体を隠そうとしている。
「…………」
「…………下の布が……当たり前だが、小さすぎるっ。やっぱり似合うはずがない、だろ……?」
「…………」
「…………おい、何か言えよ。人が恥を忍んで、笑いを取ってやったんだから…………っ」



以下続く









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